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涅槃への道

 

「人は必ず死ぬ」

人は必ず死にます。もう百年も経てば、今生きている人は、ほとんど居ないでしょう。もう何年も前ですが、「うつ病」のきつい時、ある本でこの事を読み、心が楽になりました。ごく当たり前のことですが、忘れていたのです。いつか必ず死ぬのなら、今わざわざ自分から死ななくてもいいだろう。楽しく寿命をまっとうしたらいい。くよくよ悩んでばかりいることが、ばかばかしくなりました。

「人間は生まれた時から一歩ずつ死に向かって進んでいる。」

「生きるという病気は致死率100%なのです。」

死ぬのは明日かもしれないし、30年先かもしれない。そう思うと「今」を大切に生きる事の方が大事だと思うようになりました。「一期一会」「諸行無常」毎日私は生まれ変わっているのです。

 

「とりかえしがつかない」

命を失うこと。死ぬこと。それはとりかえしのつかないことで、あきらめるしかないのだと思います。あきらめきれないのは事実ですが、でも、たとえその場は生き延びても、いつかは必ず死ぬのですから。

母が癌になりました。幸い早期発見で転移もなく、手術で取り除き「これでまた寿命が延びた」と言って喜んでいます。その母も明日交通事故で死ぬかもしれないのが現実です。宝くじで三億円当たる確率よりも、宝くじを買った帰りに交通事故に遭う確率の方が高いそうです。朝、普通に家を出たが、「池田小学校事件」や「秋葉原通り魔事件」、「JR福知山線脱線事故」のように帰らぬ人になることがあります。

死んでしまうと、生き返らすことができません。まさにとりかえしのつかないことです。

そんな時の賠償は、結局「お金」になります。命を「お金」で弁償することに、なにか違和感を覚えます。謝罪で気持はおさまりますか?遺族はどんな思いでしょう。生命保険に入っていれば安心ですか?突然愛する家族を失い、いつ自分が遺族になってもおかしくありません。日頃から「誰にでも死が訪れる」という覚悟をすることが必要ではないでしょうか?

 

「脳死は死なのか」

はっきり言ってよくわかりません。そもそも「死」の定義はなんでしょう。自力で呼吸していない。心臓が動いていない。脳波がない。脳波が測定できなかった昔はどうだったのでしょう。脳死の子供を持つ親が、「私の子供は死んでいません。髪も爪も伸びているのですよ!」と言う場面をテレビで見ました。この場合、この子供は親にとって決して死んではいません。

また、心臓移植を受けないと死んでしまう病気の子供がいます。生きた心臓が必要なのです。生きた心臓は、誰かを殺さないと手に入らないと思うのが普通ではないでしょうか?そして、心臓を提供しない植物人間も、心臓を運良くもらえ生き延びた人も、そう遠くない未来に必ず死ぬのです。なんかしっくりこない感じです。

 

「死刑について」

人が人を裁く。その中でも極刑は「死刑」です。「生きるノート」と言うHPをやっていますが、実は私は死刑賛成論者です。生きることが大切だと思うからこそ、人が殺されたりした場合、大切なその人の人生を奪ったことになると思うからです。

目には目をではありませんが、「人を殺したら自分も殺される」で良いのではないでしょうか?それぐらいでないと犯罪抑止力にならないと思います。例えば犯人が「無期懲役」で済んだとしたら、彼は刑務所の中で人生を全うできるのです。もちろんすべての自由はなくなりますが、最低限、人間として扱ってもらえます。私たちの税金で、食事も医療も保障されます。模範囚や恩赦などで、数年後に世間に戻ってくることもあるのです。確かにいくら殺人者を「死刑」にしても殺された方は帰っては来ません。でも、遺族の感情として、せめて敵は討ってもらいたいと思うのです。ただ誤解の無いように書きますが、あくまで「冤罪」が無いことが絶対前提の話です。

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